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モテたいなら「ガツガツせよ」or「ガツガツするな」──どっちが正しいのか?:ヒトの恋愛について進化の視点から思う事、雑感(前編)

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「モテたいならガツガツせよ」「モテたいならガツガツするな」、世の中の恋愛アドバイザーたちは真っ二つに分かれ、それぞれ正反対の立場をとる。

 

こういう議論を目にするたびにいつも思うのが、「お前らそれぞれが別々のイメージ(印象)をもっていて、それをぶつけ合ってんだから決着つくわけねぇだろ」ということだ。

 

イメージとイメージで「こっちがモテる!」「いやそれはモテない!」とヤりあってんだから、いつまでたっても話が終わるわけはねぇんだよ。

 

それを遠巻きに見る非モテたちも「どっちが正しいのか」と右往左往する。ヒトは感情でこそ動かせるので、非モテたちのココロの琴線に触れる主張をした方が勝ちだ(指導的立場を争ってるのなら)

 

 

イメージ vs イメージ、印象 vs 印象の議論を成り立たせるためには、まず議題となる言葉の定義を行うことが大切だ。

 

「ガツガツ」とは、実際、どのような振る舞いであり、どのようなスタンスであり、どのような行為であるのか?

 

──と、そんなことはアホでも言える。

 

問題は、「恋愛」というものが、具体的な現実世界で繰り広げられるものではなく、むしろ精神的な、イメージや印象の世界に存在するもんだということだ。

 

恋愛は実体的な世界ではなく、脳みその中の精神世界において経験される。

 

そういうマインドの世界では実体世界で働く物理法則とか、因果関係とか、そういう基本的なものすら全て仮象(Schein)としてしか存在しない。

 

ゆえに、" ガツガツ "という言葉をソリッドに定義することに意味はない。

 

むしろ" ガツガツ "の曖昧なイメージ、フワッとした印象を排除してしまうことが、マインドの世界の事象を語る上では命取りになるからだ。

 

○ モテたいならガツガツせよ

○ モテたいならガツガツするな

 

文脈によっちゃどっちも正解(不正解)。だって結局、相手の印象次第でしょ?

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そう、相手の捉え方の問題だ。恋愛にまつわるすべてはマインドの話になるから、具体的に「○○すればモテる!」と、マニュアル化することは不可能だ。

 

ただし、恋愛はヒトの生殖行動である。

 

それが生物学の範疇にある以上、ヒトの配偶行動にはロジックがあり、生殖を駆動するメカニズムがある。

 

マニュアル化はできないが、事象のメカニズムを解き明かすことは可能だ。

 

たとえば「感情」について考えてみよう。他者の感情操作を行うことは可能だろうか?──可能である。

 

ではその操作法をマニュアル化することは可能だろうか?──“マニュアル”の定義による。

 

相手の認知に依存する以上、完璧にワークするマニュアルというものをつくるのは難しい。

 

「相手がどのような印象を抱くか」をこちらの完全統制下には置けないからだ。

 

たとえば「恐怖」はそこから退避するか、もしくは戦え(→怒りの起動)、ということをヒト個体に促すための自己防衛システムである。「恥」は “他者の不承認への恐れ” という社会的な排斥圧力に対する脳みその懸念システムである。

 

このような「メカニズム」を理解して、アメコミヒーローのデッドプールのように“第四の壁”を破ったところに立って、「登場人物」たちを俯瞰しておけば──相手に恐怖を与えたければ?相手の恐怖を抑制したければ?──相手の感情を操作することは、自ら登場人物の一人として、登場人物の一人である相手に対峙していくよりも、はるかに容易くなるハズだ。

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しかし、完全なマニュアル化はできない。個人の人格や、相手からの人格評価、互いの関係性、実際の状況、個人の振る舞い方、それを見た相手がどう受け取るか・・・感情操作法には、あまりに不確定要素が多すぎる。

 

恐怖のメカニズムとそのスイッチのon/offの条件を語ることはできるが、「○○すればそいつは怖がらなくなるぜ」とバシッというのは超ムズい。

 

それは「好き」のメカニズムについても同様なわけだ。ヒトという類人猿の「好き」を作動させるメカニズムはほとんど解明されているが、じゃあ、あの子に「好き」になってもらうには、実際ガツガツした方がいい?ガツガツしない方がいい?──に答えるのは超ムズい。

 

けっきょく、相手の捉え方がどうなるかなので、どっちでも答えられる。だからどっちも書いてしまおう。(一つの話にも統合できるんだけど、取り急ぎ)

 

 

なんでそんなテキトーな、どっちでも〜みたいなことになるのか?:

根深く掘っていくと、それはヒトが「理性」という“思考のデモンストレーション機能”を備えてしまったことによるだろう。

これにより、ヒトは“二重性”を持つようになった。たとえば、怒っている人がいたとして、理性というデモンストレーション機能を持たなければ、その存在は単純に「怖い!」に過ぎない。⇔ けれど、俺たちはデモンストレーション機能を備えているから、“彼が「怒る」理由”を、自分の脳みその中で“デモンストレーション”できるわけだ。

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──するとたとえば、アイツが怒るのはビビってるからだ、とか、上位個体の圧がかかってるからだ、とか、ストレスという名の適応度低下のサインに反応してるのだ、とか、怒るのは権利の保持と地位が脅かされた場合の感情反応だ、とか、いろんな可能性(IF, 仮想現実)が考えられるようになる。

;そんなことがひとたび考えられて仕舞えば、怒ってる本人に対して周囲が抱く印象は、シンプルな「怖い」だけではなくて──本人はそういう反応を意識してるにせよ無意識にせよ期待してるんだけど──「大変だなぁ」みたいな憐れみ感情、同情みたいな望まない反応まで生じてきてしまう。(look upしてほしいのにlook downされるとか最悪だな)

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──“ 相手の印象次第 ”とはそういう事なのだ。「モテよう」としてガンバることが、デモンストレーション思考を備えた人間からみりゃ、「頑張ってんなぁ(=モテないんだなぁ)」という印象にもなる、ということ。

「モテることを狙った振る舞い」が「非モテ」と認識されるのなら、「モテることを狙ってない振る舞い」は「モテ」と認識されるのか? 「モテ男」のような振る舞いが「非モテ」と捉えられるなら、「非モテ」のような振る舞いが「モテる」と認識されるのか? つねに“相手が裏をどう読んでるか” という思案、なんだこのゲーム理論、難易度高え。

──とにかく、

「ガツガツ」がモテるか/モテないか を語ることは、そこまで踏まえなきゃいけないので、超フクザツな話になっちゃうって事。

 

(──以下、「モテたいならガツガツせよ」「モテたいならガツガツするな」の二本立てでお送りします)

 

 

* * *

 

 

モテたいならガツガツせよ

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俺が非モテどもに一番カマしたい言葉は“ モテたいならガツガツせよ ”、である。男はまず、自分がおちんちんであることを認めなきゃいけない。

 

「ぼくはオナザル。ほんとは女の子といっぱいエッチがしたい

 

それをまず認めないことには、ルサンチマンを削ぎ落とすことはできないから、モテる努力もできない。

 

非モテの脳みそには「ブドウを食べることは人間としていけないことだ、あんな美味しものをたらふく食べている奴がこの世にいるとしたら、それは悪だ」というルサンチマンがこびりついている。

 

彼らは、女の子といっぱいセックスしてる男を「悪」だ、と心のどこかで捉えていて、「俺は絶対にああはなりたくない」と心のどこかでカタく思っている(その時、彼らのおちんちんはカタくなっている)

 

言うまでもなく、「女が欲しい!!」とガツガツした気持ちになって、ガツガツと行動志向でアクションを起こすことが、オンナをゲットする第一歩になる。

 

しかし、非モテにとって、「女をゲットすること」は、自分たちがルサンチマンを働かせて(無意識に)憎んできた「モテ男」というものに自分が"なる"、ということだ。

 

そこに躊躇いが生じる。“悪の糾弾者”であるはずの自分のアイデンティティが崩壊するからだ。

 

彼らは「ブドウをたらふく食べるのはいけないことだ」と普段から信じ込みすぎてしまっている(もちろんそれはブドウを食べたい気持ちを抑制・消失させることでムシャクシャを防ごうという心の防衛機制である)ために、いざブドウに手を出すことについて、過度に恐れるし、ドキドキする。

 

「セックスするのは悪だ」という大衆の価値観=ルサンチマンの産物(生物界はつねに、モテる男より非モテ男の方が多くなるように設計されている、そうでないと遺伝子プールの質を上げるためにわざわざ有性生殖をしている意味がないからだ)は、21世紀の日本社会においてますます存在感を高めてきているし、場合によっては「恋愛は悪だ」というような価値観まで──そのままのコトバで述べることはありえないにしても──広まってる局所界隈も存在する。

 

そういう時勢のなかで、このような「モテたいわけではないのだが」というフレーズは非モテ男子の心情に刺さるだろうし、読みたい感情を喚起するものになる。

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しかし、奥手な非モテ男の根性にまず叩き込むべきは「モテたいことを認めろ」ということであって、「モテたいわけじゃない」などという欺瞞こそが彼らを非モテに陥らせた最大要因だ。

 

「モテたい」と思う奴は、ほっといてもモテる努力をする。

(問題は「モテたい」ために成されるダッサイ努力を、そのシステム上──さっき述べた思考のデモンストレーション機能による“二重構造”のシステムだ──オンナが嫌うということなのだが、それは後述)

 

「モテたい」気持ちを心の底から本気で認められないこと。毎日ネットでオンナの裸を漁ってオナニーしているくせに「オンナは嫌いだ」とか、「興味ない」とウソを吐くこと、あるいは本心と食い違うウソを吐いていることに自分が気づいていない、意識上認められないこと。

 

まずはこの自己欺瞞的なメンタリティを徹底的に破壊する必要がある自己欺瞞はなぜ生じるのか?──これについては進化心理学者ロバート・クルツバン著『 Why everyone (else) is a hypcrite:Evolution and the Modular Minds /邦題:誰もが偽善者になる本当の理由』が詳しい。

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最新の進化心理学の知見から、「ヒトの心理/意識システムはモジュール化されている」ということが判明していて、これは「すべての人間が(ある意味)多重人格である」ということを示唆する。

 

ヒトは、おちんちんが気持ちいいときには自分がおちんちんの獣であることを認められるが、そうではないシーンではけっしてそうとは認められない。

 

ケロッと人格が変わったように、「オレは<断じて>おちんちんの獣ではない」と、意識がそうなるのである。

 

それは嘘をついているとか、自己矛盾とかの話ではなく、本当にシーン別に脳みその中の意識システムの構成が切り替わっていて、それらを統括する上位意識というものが存在しないからだ。

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だから、非モテ自己欺瞞に気づくことができない。本当はセックスがしたいからこそ「セックスはいけないことだぞ」と思い込んでいることに気づかない。

 

セックスがしたいシーンにおける意識システムと、日常的な慣習を司る意識システム、あるいは社会的なステートメントを述べる際の意識システム、またあるいは合理的な思考をする際の意識システムがそれぞれ別個に存在し、それらを統括して認識する上位機構が存在しないために、「(自分が)セックスしたい」ことを認めるのが、これほど難しくなる。

 

 

テレビゲームを例に考えてみよう(なんで俺が出す例はこんなに雑なんだろうな)

 

・「ゲームして遊びたい(が、出来ない)」

→「(他人が)ゲームして遊んでるのが気に食わない」

→「ゲームは(お前らは)するな」

→ なぜ?( "理性"という心的リハーサル機能を使って"感情"をサポートしようとする)

→「ゲームをするとアタマが悪くなる」

→「だからゲームをするのはいけないことだ」

→「そんな楽しいことを存分にしている奴がいるとしたら、それは悪だ」(ルサンチマンの完成)

→「俺は、悪にはなりたくない、だからゲームはしたくない」

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これが世の中の非モテが恋愛を毛嫌いすることに至るまでの心理メカニズムだし、「セックス=悪」とモテ男を批判する方向を目指す理由だし、彼らがモテることに頑張らない理由でもある。

 

「ゲームはするな」「ゲームをするのは悪だ」「ゲームなんてしたくない」──そんなことを、半意識的であろうとも普段から思考している人間が、いったいどうやってゲームが上手くなれるだろう?

 

「モテることは悪(=モテ男はムカつく!)」というルサンチマンさえスッキリ取り除いてしまえば、非モテの大半はもうちょいモテる努力をするようになるし、女の子をゲットしようとガツガツすることにも厭わなくなるはずだ。

 

──いうまでもなく、男の恋愛とは打率ではなくて打数である

 

近年の遺伝子解析から、ホモサピエンス史上において一人でも自分の子どもを残すことができた割合は、全個体のうち男はおよそ40%/女はおよそ90%であったと判明している。

 

そのような祖先たちの成績を鑑みると、「男は行動しなければ女にはありつけない」というのが過去の状況だったのは自明だ。そしてその過去の状況に適応して、現在のヒトの脳みそが形作られているのが実情なわけだ。

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40%というと、平均的な男(モテ偏差値50)ですら女とのセックスにはろくにありつけなかったことになる。

 

なぜそんな「オトコの無駄遣い」が起こるかといえば、生物学の世界ではメス側がオスを"ジャッジ"し、そいつと生殖するか、どうか(その遺伝子を自分のに混ぜ混ぜするか、どうか)を決める仕組みになっているからだ。

 

オスとメスに分かれて遺伝子複製することにした有性生殖は、遺伝的多様性を創出することで、①寄生者(ウィルスや菌)のハッキングに強くなる ②さまざまな状況に対して適応度が高いものをのこせる──という二つの利点を持つ。

 

本来は「いろんなパートナーを探してね」ということなのだが、ドーキンスがいうように遺伝子は “利己的” であるが為に、動物個体は自らのゲノムをより強化し(他の奴らよりも)より多く残そうという遺伝子生存戦略に沿ったミッションを遂行しようとしようする。

 

オスとメスはどちらも異性の獲得を望むが、遺伝子生存戦略に基づき、オスは「数」、メスは「質」を求めようという向きが強い。

 

それは生殖にかかるコストと投資量の差でそうなる。

 

メスは仕組み上、産める数が限られている(生命エネルギーにもエネルギー保存の法則は成り立つ)し、"タマゴ"を抱えているために、危ないことはできない。

 

だからメスは「寄ってきたオスを選り好みする立場」になる。

 

とりわけ哺乳類の場合、出産後も育児期間が必要なこともあり、メスは「どの遺伝子を混ぜ混ぜして子供を作るか」の判断に非常に慎重になる。

 

一方で、オスはDNAコード (精子) をメスに渡すだけでコトが済むので、基本的に俊敏に動けるし、その足取りは軽い。子育てもせず、ヒマな男が何をしはじめるかといえばモテ競争である。「もっとたくさんの女を!」というわけだ。

 

世の子育てパパの競走性向というか闘争本能が低いのはある意味必然で、基本的にオスは「もっと女からモテたい」と思うからこそ競うし、チャレンジする。

 

還元的な話だが、ヒトを生物学的存在として扱うならそれは事実だ。モテたいと思わない男は競争性向を低下させ、上昇志向を抱かなくなる。

 

そして、子持ちの女性がそのようなこと(=堅実で真面目にコツコツの安定志向になってほしい)を「夫」に求めるのもまた生殖戦略だ。

 

オス側の「遺伝子拡散戦略」は、メス側にとっては知った話ではない。ペア=ボンド(オス&メスの育児共同計画の基盤となる、情で結ばれた排他的なつながり)をオスに契約させるメスが真に要求しているのは「わたしの子だけを愛せ」という事だ。

 

"わたし(とその子)だけを見てほしい"は、夫婦によるペア育児が適応的だった動物種──鳥類など;ちなみに鳥類も「浮気」はするし、カッコウのような異種間托卵は珍しくても、同種間の“托精”は頻繁なことが判明している;また、夫婦のペアは一生のうち何度も変わる──におけるメスサイドの生殖戦略であり、

 

「そうでないならばあなたとはしない」とメス側がオスのセックス要求をずっと跳ね除けて続けたことで、オスは「この子だけを愛する」という感情を呼応するように共進化させ、そこに1-to-1の恋愛 (Love) というものが生じた。

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たとえば、ゴリラのボスオス(アルファオス)がやるように「自分がセックスしたたくさんの女を、みな平等に、序列をつけずに(=特別視せずに)扱う」という態度をヒトのオスがやったとしよう、きっと非難轟々だろうし、彼女にはぶっ叩かれる。

 

それは、ヒトのメスの生殖戦略にもとづく「わたしとその子だけを愛せ」という要求(ルール)に対し、ヒトのオスの生殖戦略にもとづく、彼の"博愛的"なヤリチン態度──もしそういう態度を取る気なら──違反しているからだ。

 

そう、"差別的な愛" しか女は認めないってわけ!──でも確かに。愛には差別が不可欠だ:ちなみにそういう「差別」感情が生じるのは、ペア=ボンドを結ぶ際に分泌される共感ホルモンオキシトシンが、個体にエスノセントリックな思考態度をもたらすのが原因だろう。そしてオキシトシンは男よりも女が圧倒的に多く持つ

 

 

──ヒトは大脳を発達させすぎた&二足歩行で骨盤が縮んだために、ゴリラとは異なって、異常なまでに未熟な状態で胎児が産まれてくる。

 

また、食料豊富かつ安全なゴリラの生息域(ジャングル)とは異なって、ホモサピエンスの生息域は隠れられる場所が少なく、食料獲得の危険度も高いアフリカのサバンナである。

 

──そのような「(より手厚い)育児の必要性」「メス1匹にオス1匹をより添わせる形の生活適応性」などなど、多々の要素が複雑に絡み合い、それぞれが多方向に因果関係を及ぼした結果として、

 

ヒトでは「育児中の女が男を一人(独占的に)確保する」というシステムが適応度の高いものとして生き残った、ということだ。

 

時間スケールに差はあるが、暮らしが変化すれば、脳もそれに呼応して進化する(あるいは逆も)。「複数異性の確保=罪」というふうに現在ヒトが思うのは、進化的な適応といってもいいだろう。

 

生物学的要素──進化的要素や遺伝的要素──をまるで考慮にいれない歴史学社会学のセンセイは、人びとが持つ「複数異性の確保=罪」という観念についても、それが許されている社会を例にあげながら、文化こそが全てだというだろう。

 

しかし「複数異性の確保=罪」という意識は、どのような文明や社会においても人びとに少なからず共有されていることと思う。

 

それは、基本的には"許されない"ものであるからこそ、それを"許す"条件=罪を免れるものとして、金持ちであるとか、血筋がいいとか、なにかの功績を成し遂げたとか、社会的地位が高いとかの「特権」が必要になる(また社会の「承認」が必要なことにもなる)。

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複数異性の確保="不倫"を、平凡な一般市民が白昼堂々やることは、どんな社会においても(感情的に)許されない。

 

実際、イスラムなど認められている国でも “一部の特権階級に限る” という形が通例で、それは明治以前の日本の社会システムとて同様だろう。

 

一夫多妻家庭を営むイスラムの女性も、じつは「できることなら夫を独占したい」と思っているという報告もある(しかし「独占できない」ということがむしろ、彼女たちの恋心をかき立てている可能性も否めないだろう、進化史において、“オンナが独占できない男” とはみな配偶価値の高いモテ男だ、

 

──このようなことからも、「異性を排他的に独占したい」という感情(=“愛”)が、すべて文化的な "学習" に拠るものではなく、むしろ進化上の適応としての側面が色濃いのではないか、という主張は強化できるだろう。

 

ニコラス=ウェイドが『A Troublesome Inheritance:Genes, Race, Human History/邦題:人類のやっかいな遺産──遺伝子、人種、進化の歴史』で主張しているように、ヒトの遺伝的基盤こそが「社会」や「文明」を形作る。

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DNA解析の結果をもとにした科学的事実として、その遺伝的基盤は “人種” によって異なるそしてそれが「社会」そして「歴史」の違いに繋がった可能性は高い──たとえば日本人はセロトニントランスポーターの数が世界で一番少ないが、それゆえに(?)「保険」に費やす金額比は突出している)が、

 

その一方で生物学的な種としての特徴:ヒューマン = ユニヴァーサルズというものはたしかにあり、異性との1:1の排他的関係を望む気持ち──いわゆる「恋愛感情」は、ヒトであれば誰しもが生得的に持ちうるものではないだろうか。

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──しかし、ヒトの生殖戦略は、けっしてそのような「愛 (Love) 」だけでは駆動しない。

 

そもそも"複数異性の確保"をわざわざ「罪」として定めなければならないのは「行為」がたしかに存在するからだ。

 

オンナが本当に"浮気"を認めなければ、男はそのように進化するわけで、こんなに世の中に浮気症の男が大量発生しているはずがない。

 

オンナがそれを認めない限り、「浮気症」は適応度が低いスタンスであり、必然的に淘汰の憂き目に酷されるからだ。

 

進化生物学者のロバート=スミスも、著書の中で同様のことを述べている。

 

──こうした生物学的な意味での二重基準ダブルスタンダード)は、次のようなアイロニーを伴う
:もし女性が、生命の歴史を通じて無差別な性交の機会を拒絶しつづけたとしたら、男性がそうした形質にもとづいて淘汰されることもなかっただろう、ということだ。
(「精子間の競争と配偶システムの進化」)

 

そう、ヒトの脳みそに"プログラム"されている生物学的な種としての恋愛スタイルは「一夫一妻」ではなく、

よく使われる穏やかな表現としては「ゆるやかな一夫一妻」、もうちょっと過激な表現としては「一夫一妻と乱交のミックス」、さらに本質を捉えたものとしては「托卵」などの表現がある(托精だが)

 

──人類の配偶行動研究の世界第一人者デヴィッド=バスをはじめ、世界の多くのヒト配偶システムの研究者たちは、ヒトの配偶システムが “二重構造” になっているという事実をつきとめている。

 

俺はそれを独自にL/Rミクストメイティングと呼んでいて(カッコ良すぎ)、これはヒトの恋愛=配偶行動を「ロマンス(Romance)」と「ラブ(Love)」の二つの次元に分けて考えるものだ。

 

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(──フォーエバーラブはあるが、フォーエバーロマンスはない。英語にはワンナイトラブという表現はなく、それはone night standと呼ばれ、一夜の情事を示すワードとしてはromanceが用いられる:ラブにはセックスが伴う必要はないが、ロマンスにはかならず必要だ)

 

男と女は、ロマンスのシーンとラブのシーンで別々のものを相手に求めている。ゆえにロマンスのマナー(やり方)と、ラブのマナー(やり方)は異なっている。

 

たとえばロマンスのシーンで、相手の女に「ほかの女」の存在を仄めかすことは男の口説きを優位にするが、一方でラブのシーンで「ほかの女」の存在を仄めかすことはマイナスに作用する。

 

そのような区別無しにどちらの戦場にも同じ戦略を持って臨む男が世の中には多いが、だいたいモテない。恋愛は二種類あり、そのマナーも二種類ある。

 

そして上で述べたように、シーンごとに女の脳内で意識=人格を構成しているモジュールは異なる。

 

オンナの脳内意識が日本人の時、おかずはご飯と交互に、口の中でぐちゃぐちゃに混ぜて食べるのが"マナー"として望ましいとされる。そして普段も、そういう"マナー"がなってる男がいいです、と公言する。

 

しかしひとたびオンナの脳内意識がフランス人に切り替わった時、目の前でおかずを口の中でぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて食っている男をひどく情けなく思う。

一品ずつ料理は成り立っているのだから、それを台無しにするようなことすんな、と思う。こんな男ありえない。

 

「ロマンス(遺伝子投資契約)」の際に惹かれあう男女のパートナーと、「ラブ(育児投資契約)」の際に惹かれ合う男女のパートナーは、かならずしも一致しない。

 

かならずしも同じでない──子作りと子育てで別々のパートナーを選ぶことだって仕組み上は可能だし、D.バスをはじめ、人類は長らくそうしてきたのだろうと唱えている学者は多い。

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──このような一連のことをアタマに入れた上で、男の「ガツガツした振る舞い」について考えてみよう(どこに着地するのだろう?ひたすら書き殴っている自分からしても、まだランディングの気配はない)

 

オンナは、自らの遺伝子生存戦略に沿うパートナーを選びたい。翻せば、そういうパートナーに自分がなれば、男はオンナから好まれる。それに照らし合わせてガツガツした男はどうか?という話だ。

 

女の遺伝子生存戦略=異性獲得戦略において、マターな項目は二つある。

 

  • クオリティ(質) を重視すること・・・より適応度の高いオス個体を選り好みしたい
  • ペア=ボンドを結べること・・・オスからの援助と育児投資が無ければ子育ては難しくなる

 

前者は、子どもの将来の勘案(子どもの中には自分の遺伝子が入ってるので、自分の遺伝子についての勘案とも言える)で、子どもがもし大人まで育たなかったり、オス同士の生殖競争に敗れて異性を手に入れられなかったりすると、母親からすれば大問題というわけだ。

 

母親は、できればこの先何代も何代も永遠に遺伝子を残せていけるような子どもをもうけたい。

 

そのためにはパートナーの遺伝子の「質(クオリティ)」に着目する必要がある。そのクオリティの判断はSR観点──「生存(Survive)」と「生殖(Replicate)」──からそれぞれ適応度をみたものになる。

 

生存面(S判断)ではまず病気や障害にかかりにくいものを選びたいし、身体能力が高く、丈夫で元気がある方がいい。

 

生殖面(R判断)では異性を惹きつける能力が見られる。ルックスの美しさ、モテるかどうか、アーティスティックな才能や知性などもここに含まれる。

 

また、動物社会における「地位の好み」は身体の強さや扶養能力(後述)などの要素を広くカバーするものでもあるが、基本的には「モテるかどうか」を見ているといっていい。

 

オランダ人の動物学者でチンパンジー研究の権威であるドゥ=ヴァールは、著者『Chimpanzee Politics:Power and Sex among Apes/邦題:政治をするサル チンパンジーの権力と性』のなかで、動物社会における「地位(序列)」と「モテ(異性獲得)」のメカニズムを詳細に記述している。

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ドゥ=ヴァールによれば、少なくともチンパンジー社会では、カラダのデカさや強さのみでオスの「地位」は決まらない。

そこには人間社会と同じく儀礼というシステムがある。

 

一回ボスを打ち倒したからといってすぐさま序列は変わらない。むしろその後の「儀礼」では、先程ボスを打ち倒したばかりのオスが、すぐさまボスに「あいさつ」に向かう。そしてこの「儀礼」が群れの"序列"=セックス優先権を確定させる。

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さらには、メスはオスの闘いをただ遠巻きに見守っているだけではない。メスもオスの序列闘争に関与する。「モテるオス」は多くのメスの支持や援助を受け、地位競争を優位に推し進めることができる。

一方で、身体がデカくてオス同士のケンカには勝つものの、メスからの支持を受けられなかったために失脚するボス=オス (アルファオス) もいる。

 

チンパンジーの社会でも「メスの拒否権」は保障されており、ボスが交尾を求めても、それがメスから受け入れられない限り、できない。*

 

*このような仕組み(レイプの不可)は生物界では広く散見される。その理由として:大きな視野では、有性生殖がメスがオスを “選ぶ” ことで遺伝子プールの質を向上させるものである以上、メスが選択権を持たないことには意味がない。もう一つの理由として:至近な視野では、レイプ個体はメスの要請に基づき他のオスたちから激しい攻撃を受けるため、生き残ることができず(=適応度が低い)、淘汰される。

 

メスの不支持はボスの権威を大きく傷つけるとともに他のオスによる"クーデター"の誘因となる。結果として、チンパンジーの社会では「メスの支持」を多く受ける者が群れにおいて高い序列を占めることができ、セックスをより自由に、たくさん行うことができる。

 

──自然界とはまさに、「モテ=マッチョイズム」の世界なのだ。

 

そして生物学的には、ヒトの配偶システム(恋愛力学)もそういう仕組みになっている。ただし──ここが重要だが──、現代のヒト社会の序列システムの仕組みはそれに基づいてはいない。

 

それは「文明」というものが「自然界からの隔絶」を意味するからだ。生物学的には、人類の文明化とは「ヒトの自己家畜化」として捉えることができる。

 

家畜化された動物は、自然選択の圧力を受けず、むしろ人為選択によって「どの個体を残し、どの個体をつがわせるか」が飼い主の都合のいいように決められるため、自然界のルールが作用しにくい。

 

同様に、文明化された社会においては、かならずしも「モテ=マッチョイズム」によって社会序列(地位)が決まらない。

 

だから、「モテ=マッチョイズム」が強く作用している自然界ではほとんどありえない事象:“ 地位” の高いオス個体がセックスにまるでありつけない (非モテエリート)といった事態も散見される。

 

かならずメス全員から選ばれるわけではなくとも、動物社会で群れのトップを占めるオス個体はみな旺盛に、性とセックスを謳歌できる。それは、地位がモテ=マッチョイズムに基づいているからだ。

 

「地位が高いオスがモテる」という現象を表面的にのみ観察した生物学者は「社会的地位を高めれば男はモテる」と断言するが、モテ=マッチョイズムの働きが弱い(グループ内の地位競争に女性陣からの「支持」が反映される思春期男女のような集団では別だろう)、文明化されたヒト社会では、そのルールが適合しないことも多い。

 

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──このように、ヒト社会の「地位」と動物社会の「地位」はモテ=マッチョイズムが背景にない(あるいは薄い)という点で、明確に違うものだ。

 

たとえ「県知事」という政治的に強大なを権力を誇るポジションを占めることに成功したからといって、人間社会では「モテ」はけっして確約されるものではない。

 

むしろ、現代の人間社会における政治的なトップポジションとは、大衆の「社会性」と「モラル」の管理を司る、いわば "司祭" のような役割のポジションなのかもしれない。

 

自然界のモテ=マッチョイズムにもとづいた権力争いでは絶対に上には行けないようなタイプの男が、人間社会ではむしろ、よく出世したりもする。

 

そういう訳で、ヒト社会における社会的地位の高さは、男のモテ度合いとは比例しない (結婚需要とはある程度比例するだろう──L/Rミクストメイティングの話を思い出してほしい。本来、精子投資と育児投資の男は別役なのだ) 。

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──アフリカのカラハリ砂漠に住み、狩猟採集生活を営むブッシュマンたちの部族社会に、それを解き明かすヒントはある。

 

ブッシュマン社会では、対等さ・平等さが極めて重んじられており、男たちは成人であれば年齢や血筋に関係なく、社会的/政治的な力関係はイーブンで、序列や地位といったものも存在しない。

 

カリフォルニア大の人類学者クリストファー=ボームは、著者MORAL ORIGINSThe Evolution of Virtue, Altruism, and Shame(邦題:モラルの起源──道徳、良心、利他行動はどのように進化したのかのなかで、このような原初的な部族社会システムのなかに「ヒト=モラルの起源」をみている。

 

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──もし、現代社会において高い社会的地位に座する男が、ヒト=モラルの遵守と管理を要請されているというのが事実なら、社会序列はモテ=マッチョイズムに基づかなくて当然だし、

「社会的地位」や「肩書き」といったもので女の頬っぺたをペシペシしばいても、彼女がそれにかならずしも性的魅力を感じない理由になるだろう (──繰り返すが、L/Rミクストメイティングに基づき、「パパ」としての需要は高い ) 。

 

何故か? 

 

──ヒト=モラルとは、我欲(性欲)の抑制生殖競争の否定にこそ起源し、そこに核心があるものだが、

当然のことながら異性獲得欲がガツガツと突っ張っていない(あるいは他者を恐れてそれに向かえない)男の遺伝子形質は、

───つまり、モラル心がめっぽう高い男(イイ人)の遺伝子形質は──、

今後、子孫たちが遺伝子生存競争に参戦する上で、けっして"(他に比べて) 有利"と言いきれるだけのものじゃあないからだ。

 

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力への意志は、人間を動かす根源的な動機である。達成、野心、「生きている間に、できるかぎり最も強い者、より良いところへと昇りつめよう」とする努力。"
- フリードリッヒ・ニーチェ

 

───はっきり言って、「モラル(個の性的追求の否定=ヤリチン行為の “悪” 認定)」とは、ガツガツしたモテ競争フィールドには本来そぐわぬものなのだ。

 

 

 

 

(── 後編に続く)